2008年06月30日

親?の顔を見てしまいました!

これからの日本が『少子高齢化』で人口減少の予兆があるといっても、大都市の通勤ラッシュは以前と変わりません。

平日の出勤では電車内で座ることは不可能ですが、土曜出勤の場合は11時に家を出ますから、普通電車であれば座れます。

先週土曜日の6月28日、私は4人がけのシートに座りました。

車内での読書が通勤時のささやかな楽しみです。

座った位置は、進行方向の先頭を1番とすれば、4番目です。

まもなく、例の『カシャカシャ音』が聞こえてきました。

電車の走行音、ポイント通過時の音はまったく気になりませんが、あの音は気にしまいとすればするほど、気になります。

「発生源はどこか」と見れば、私の隣の隣です。

つまり、先ほどの番号でいえば、『2番」です。

十代後半の女性でした。

注意をしようとして、私が『2番』の女性に向くと、その右側、つまり『1番』の女性が私に顔を向けました。

私が『2番』に注意すると、『1番』は『2番』に「音を小さくしなさい」と言いました。

推測では『1番』は『2番』の母親と思われます。

『2番』は、いわゆる『切れた』状態となり、「いま、小さくしているんだよ」と言いました。

おそらく、『1番』はこれまで音量で注意されたことがなく、したがって音量を下げる操作をしたことがなかったのでしょう。



昨日、あるニュースサイトを見ると、『ながら音楽』の危険性の記事が掲載されていました。

そこでは、イヤホンで音楽を聴きながら、踏み切りに入ってしまい、電車に触れて大怪我をした女性の例がありました。

以前に携帯電話に夢中になり、踏み切りで電車に轢かれた女性がいました。



随分と昔ですが『ながら族』という言葉が生まれました。

音楽を聴きながらの受験勉強が代表例でした。

これならば、自宅の中ですから、よほど大きな音でないかぎり、世間様には迷惑にはなりません。

しかし、混んでいる電車内での音楽は迷惑このうえもありません。

私から見れば、音を凶器とした『通り魔』です。



1979年6月30日、ソニーが『ウォークマン』を発売しました。

『ウォークマン』は完全なる和製英語です。

アメリカ、カナダなどの英語圏では、別な商品名で販売したそうです。

しかし、いつのまにか『ウォークマン』が浸透していまいました。

もし、フランスであれば『文化侵略』として、日の丸が焼かれたかも知れません。


今日で1年の半分が過ぎました。

それで、おまけをふたつ。

その1 イタリアの世界遺産に落書きした某県の某私立校の野球部監督が解任されました。

    これは『一罰百戒』でしょうか。

    本人は「深く考えないでやってしまった」と言っています。

    こんなことは、考える以前の問題です。

    落書きした動機を見ると、深く考えてもやっていたでしょう。

その2 台湾では、来月から中国の団体の観光客の受け入れを始めます。

    台湾のガイドは戦々恐々だそうです。

    なぜ、どうして、、、、それは後日のお楽しみ。
posted by 陳澤民 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月29日

お猿の電車は動物虐待だったのか?

昨日の土曜は出勤日でした。

乗換駅、下車駅では、なぜか警官の姿が目立ちました。

帰宅してニュースサイトを見ると、来月の洞爺湖サミットを前にしての特別警戒でした。

テロだけでなく、反グローバル運動、環境保護運動も対象のようです。

環境保護運動といえば、世界的なネットワークを持っている環境保護団体から2名の逮捕者が出ました。

鯨肉の持ち帰り事件で、その証拠の鯨肉を得るため不法侵入をしたという容疑です。



私は昔々の『ウォーターゲート事件』を思い出しました。

ニクソンを再選させるため、共和党の工作員が民主党本部へ不法侵入した事件です。

これが原因でニクソンは大統領を辞任せざるをえなくなります。

侵入した工作員は、ニクソン再選のため、当然のことをしたと思っていたのかも知れません。


『スパイ大作戦』のメンバーも、もし発見されれば、不法侵入で逮捕されるでしょう。

外国であれば、その国の法律で罰せられます。

最悪の場合は、スパイとして極刑に処せられるでしょう。



スペインといえば、条件反射で『闘牛』を連想します。

あの闘牛は、ラテンだからこそ似合います。

闘牛をするゲルマン、アングロサクソンは、想像もできません。

その闘牛が、存続の危機にさらされているそうです。

牛を公衆の面前で殺すのは残酷だから、だそうです。



1974年6月30日、東京・上野動物園の『お猿の電車』が廃止されました。

動物虐待と抗議されたためです。

実際にお猿が運転していたわけでなく、運転台の上に鎖につけられて座っていただけでした。

1973年、国会において『動物保護管理法』が成立しました。

翌年の1974年、同法が施行されると、電車の上に鎖でサルをくくりつけておくことは動物虐待だと動物保護団体から非難が起きました。

『世論』の力に抗しきれず、廃止となりました。



最近はニュースに出ませんが、某猿軍団とどこが違うのでしょうか。
posted by 陳澤民 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月28日

またもや『警戒警報』

昨日の記事で、今から94年前の1914年6月28日、現在のボスニア共和国の首都・サラエボで当時のオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたと書きました。

皇太子ですから、現在の皇帝が死去すれば、次の皇帝になります。

ところが、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の皇族、政府は、この皇太子は次の皇帝にしたくないと考えていたようです。

ひとことでいえば『嫌われていた』のです。


しかし、感情と国益は別です。

まったく正反対でも不思議でないのが、人間たるゆえんでしょう。

オーストリア・ハンガリーは、暗殺者の出身国であるセルビアに「暗殺してくれて感謝します」などとは言うわけはありません。

この事件を口実にして、セルビアに難題を要求しました。

現在のセルビアは、バルカン半島では『悪役』ですが、当時の『悪役』はオーストリア・ハンガリーでした。

セルビアは『いじめられ役』であり、そのセルビアの味方がロシアです。

セルビアとロシアは、『スラブ民族』『ギリシャ正教』というキーワードで結びついています。

この結びつきは現在でも基本的に変わりはありません。


当初はセルビアとオーストリア・ハンガリーの紛争でしたが、それぞれの背後のロシアとドイツの衝突になり、そして世界大戦になりました。

ただし、これは第一次世界大戦の原因に関するひとつの見方です。



1950年6月29日、北九州に『警戒警報』が発令されました。

今月の8日、東京・秋葉原での通り魔事件では、現場に居合わせて、状況が把握できず、立ち尽くすだけの人が多かったそうです。

それも、当然といえば当然かも知れません。

しかし、今から58年前は太平洋戦争の敗北から、わずか5年です。

大半の人は、その直前までの『空襲警報発令』を覚えていたでしょう。

『警戒警報』発令の4日前の6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破して韓国領内に侵攻し、朝鮮戦争が勃発しました。

6月28日、韓国の首都・ソウルが陥落しました。

やがて、北朝鮮軍は韓国の大部分を占領し、釜山の近くまで押し寄せました。

関東、東北、北海道から見れば、韓国は地理的に遠い国ですが、九州、特に北九州の人々には『すぐ隣』です。


『一衣帯水』といいますが、九州と朝鮮半島は『対馬海峡』『玄海灘』をはさんだ『隣同士』です。

古来から『山は隔て、海は結ぶ』といわれてきました。


海は『隔てるものでなく、交流するもの』にしたいものです。

しかし、勝手ながら『数百万、数千万の難民の渡る海』には、なってほしくありません。
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2008年06月27日

ベルサイユ講和条約調印、新たな復讐の始まり

時代劇の主題のひとつに『仇討ち』または『敵討ち』があります。

ある仇討ちが成功して、それで終わりならばいいのですが、今度は討たれた側の肉親が『仇討ち』を行う場合があります。

いわゆる『復讐が復讐を呼ぶ』または『復讐の連鎖』です。

これは、国家間でもよくあります。


フランスの首都・パリの郊外にベルサイユ宮殿があります。

ここは、エッフェル塔とともにパリ観光の両横綱です。

そのベルサイユ宮殿の中に『鏡の間』という部屋があります。

部屋といっても、日本のワンルームマンションが、はたしていくつ入れるか見当もつかない広さです。

実は、私の初めての外国旅行がフランスでした。

エッフェル塔とベルサイユ宮殿を見ているはずなのですが、もはや記憶にありません。

当時も『初めての外国旅行』ということで、夢遊病患者のようであったかも知れません。

『鏡の間』の前に立ち、「ここがあの鏡の間か」と感慨にふけったのだけは覚えています。

これも「覚えている」と思い込んでいるかも知れません。


この『鏡の間』はヨーロッパの近代史に2度も重要な目撃者となっています。

いまから89年の1919年6月28日、世界大戦の連合国とドイツの講和条約が『鏡の間』で調印されました。

この6月28日という日、そして『鏡の間』という場所は、連合国、特にフランスのドイツに対する復讐と考えられます。

調印式のちょうど4年前、1914年6月28日、現在のボスニア共和国の首都・サラエボで当時のオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されました。

これが導火線となって、ヨーロッパ中が世界大戦という戦火に巻き込まれました。

(当時は『第一次世界大戦』とは呼びませんでした、念のため)


このサラエボでは、1984年、『平和の祭典』冬季オリンピックが開催されました。

ボスニア内戦の戦場となるのは、オリンピックのわずか8年後です。


調印式のちょうど49年前、1871年1月18日、ドイツ帝国の成立宣言が『鏡の間』で行われました。

18世紀末までのドイツは小国家が乱立する分裂状態でしたが、ナポレオンに刺激されて、統一への道を歩み始めました。

1866年、統一の障害であったオーストリアを破りました。

続いて1871年、フランスを撃破しました。

そして、ドイツ帝国が成立しました。

問題は、その式典を自国でなく、敗戦国のフランスで行ったことです。

当時のフランス人には大変な屈辱であったでしょう。

さらにアルザス、ロレーヌをドイツに割譲しなければなりません。

学校での授業がフランス語からドイツ語に変わりました。

これが、フランスの対独復讐熱に火をつけました。

ドイツ統一の立役者はビスマルクでしたが、これは大きな失敗でした。


これでフランスはドイツへの復讐を果たしたつもりでしたが、21年後にドイツから『お返し』をされます。

その話は11月11日になるでしょう。


蛇足ですが、国際法では講和条約が発効されなければ、戦争は終結しません。

したがって、太平洋戦争の終結は、1945年9月2日、戦艦ミズーリ号での降伏文書調印ではありません。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により終結したのです。
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2008年06月26日

おそろしや、おそろしやの三題噺 6月27日

6月27日に関する、最近の昔話を紹介します。

1994年6月27日、長野県松本市の住宅地で有毒ガスのサリンがまかれ、住民7人が死亡しました。

当初は、第一発見者のK氏が疑われました。

後に某新興宗教団体の犯行と判明しました。

そのK氏は、サリンによって妻から言葉、体の動きを奪われながら、冷静に対応するさまは、まさに感動ものです。

私がK氏の立場に置かれたならば、さてどうなるか、自分でもわかりません。



1999年6月27日、山陽新幹線の某トンネルで壁のコンクリート塊が落下し、走行中のひかり号の屋根を直撃しました。

調査の結果、トンネルの手抜き工事が原因と判明しました。

中国・四川の大地震では、学校の建物の手抜き工事で多くの児童生徒がなくなりました。

それでも被害が少なく、したがって犠牲者を出さなかった学校もあります。

その学校は、上海などで成功した、その地の出身者の寄付によって建てられました。

建設途中に何度もチェックをして、手抜きをさせなかったそうです。

日本でも、新築の注文住宅では注文主が建設途中にチェックをしなければならないといわれています。

完成してしまうと、手抜きを見つけることが不可能になってしまうからです。

公共事業の建設工事でも手抜きがあります。

工事事業者と監督者の間で癒着があるようで、こうなると何をか言わんや、です。



2000年6月27日、乳業名門のY乳業の牛乳により集団食虫毒が発生しました。

この集団食中毒がY乳業に与えた影響は大きく、グループの解体、再編成にまで追い込まれました。

知らない人は、Y乳業は消滅したと思っているでしょう。

食中毒の被害者が1万人以上ということも原因のひとつですが、最大の原因は社長の一言といわれています。

記者会見を終わった後、さらに質問を続ける記者に言った社長の一言「私は寝ていないんだ」。

それに対する記者の反論「こっちも寝ていません。それよりも食中毒の被害者は、もっと苦しんでいます」。

このやりとりは、ニュースで全国に流れました。

あの社長、あの一言が命取りになるとは思っていなかったでしょう。

社長も社長なら、社長を補佐すべき役員も役員です。
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2008年06月25日

Y証券、『御家再興』は成るか?

以前ほどニュースに出ませんが、6月末は株主総会が開催されます。

『十年一昔』といいますが、10年前の1998年6月26日、Y証券の『最後』の株主総会が開催されました。

先週の金曜日、『会社の葬送』の題名の本を図書館で借りました。

副題でY証券の自主廃業の内容であることはわかっていましたが、6月26日が最後の株主総会であったとは知りませんでした。

最後の株主総会の開催責任者である総務部長の目から見た『終わりの始まり』からの出来事を事実に沿って描かれています。

この本の著者は、ある経済評論家で、Y証券の最後の総務部長を主人公にした小説仕立てですが、関係者はほとんど実名で登場しています。

記者会見で「社員はまったく悪くありません」と言って泣いてしまった社長も登場しています。

あの社長の記者会見のおかげかどうか、ほとんどの社員は再就職できたようです。



読み始めてすぐ私は、Y証券の終焉は内匠頭長矩の刃傷で取り潰しになった赤穂浅野家の最後と同じだなと、と思いました。

いずれの関係者も、消滅しなければならないなら、最後まで責任を果たそうという考えであったからです。

著者も同じ考えであったようで、文章の一部に『赤穂浅野家』の文字がありました。



企業が危機に陥ったとき、経営者の言動が明暗の分かれ目になります。

北海道の食肉メーカー、大阪の名門料亭は消滅しました。

そして今回の岐阜の食肉メーカーは『暗』の道以外にはないでしょう。

おどろくのは、北海道と岐阜の社長は双子と言っていいほど、うそのつきかたが同じです。

あのような無様な社長では、社員の再就職先が危ぶまれます。


ところで、Y証券の商標は元社員が持っています。

数年先にY証券を復活させるといっていますが、さてどうなるでしょうか。



内匠頭長矩の弟・大学長広は、兄に連座して本家の広島浅野家に預けられていましたが、後に赦されて500石の旗本として『御家再興』を果たしました。
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2008年06月24日

『建国記念の日』が生まれた日

人間は生きているかぎり、過ち、失敗、ミスから逃れることはできません。

過去を思い出して笑ってすませるもの、笑えず深刻になって落ち込むもの、さまざまです。

「あの時、ああすればよかったな」と悔やむこともあります。

その原因のひとつが「注意もれ(ケアレス・ミス)」です。

試験で問題をよく読まなかったために点を取れず、不合格になった人も多いでしょう。


なかには受験者を引っ掛けようとする出題者がいますから、要注意です。

運転免許試験の法令では、そういう問題が目白押しです。

法律では、あいまいさを除去するため、厳格に用語を定義しています。

私も昔、普通自動車の免許を取った時は、道路交通法を即席で学習しました。

『車輌と車輌等は違う』だけは覚えています。

どう違うかまでは記憶しておりません。

『等』があるかないか、その違いを明確に理解していないと、合格する試験も落ちてしまうようです。



1966年6月25日、祝日法が改正され、新しい祝日が生まれました。

新しい祝日とは、敬老の日、体育の日、そして建国記念の日です。

当初は『建国記念日』となるはずでしたが、おそらく野党の反対のためでしょう、『の』の字が入りました。

一般国民にはどちらもで同じですが、議員先生には大変な問題なのでしょう。



日本にある外国の外交施設、または外国にある日本の外交施設は、双方の祝日が休みになるそうです。

「それなら、倍も休めていいな」と単純に考えてしまいます。


日本では、太平洋戦争敗北後に祝日が変わりましたが、このように国家体制が変わると祝日も変わります。

たとえば、1975年、南ベトナムが崩壊し、やがて北ベトナムに吸収されたましたが、この時は北ベトナムの祝日に変わったでしょう。

1991年の東西ドイツ統合、1997年の香港の中国への返還でも、変わったはずです。


中国と台湾には『国慶節』という祝日があります。

中国は10月1日、台湾は10月10日です。

日本語でいえば、中国は『建国記念日』、台湾は『革命記念日』でしょう。

『双十節』は台湾の『国慶節』の通称です。

私は、つい最近まで正式名称と思い込んでいました。


10月10日が10月1日に変わることは、考えたくありませんし、もちろん目にしたくはありません。
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2008年06月23日

日本とモンゴル、同盟のおすすめ

本日(6月23日)は太平洋戦争における沖縄戦が終わったとされる日です。

日本軍の牛島司令官が自決し、組織的抵抗が終わったとされています。

毎年、この日に沖縄全戦歿者追悼式が行われます。

1990年6月23日、海部首相が現職首相として『初めて』出席しました。

つまり、敗戦後から44年間、返還後から17年間は現職首相は出席していなかったのです。

出席したからといって、どうなるものでもありませんが、『気は心』といいます。

それまでの首相は、

  1.出席する必要を認めない

  2.出席したくない

  3.出席したいが、周りが「出席するな」という

  4.暑さに弱い

の、いずれかで出席しなかったのでしょう。


ところで、海部氏は首相在職中は『ノー天気』といわれました。

しかし、この人は日本の現職首相として初めてモンゴルを訪問しています。

日本人は、モンゴルの南にある某国とモンゴルをゴッチャにしていますが、実は全く異なります。

某国に比べれば、モンゴル人ははるかに日本人に近いといえましょう。

モンゴル人は「ぜったいに南の某国には呑み込まれてたくない」そうです。


そういう考えのモンゴルと日本が『同盟』を結べば、某国には脅威になるかも知れません。

どちらも大国民ですから、730年前の『蒙古襲来』『元寇』などは忘れましょう。
posted by 陳澤民 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月22日

『死に神』になった法務大臣?

時代劇の勧善懲悪もので、人気の主人公といえば、水戸黄門と遠山の金さんでしょう。

水戸黄門では印籠を、遠山の金さんではお白洲で桜吹雪の刺青を悪人に見せつける場面が最高です。

遠山の金さんが「打ち首、獄門を申し付ける」と判決を言い渡していますが、実際には町奉行には独断で死刑を言い渡す権限はないそうです。

当時の刑法、先例などにより、死刑が相当であっても、老中を通して将軍の裁可が必要なのです。

ところが、将軍様は死刑執行命令書に、なかなか署名をしてくれません。

たとえ合法的で、自分の権限であっても、人を死なす書類への署名はためらいがあるのでしょう。


現在の日本では、裁判所で確定した死刑は、法務大臣の命令があって執行されます。

1948年の帝銀事件で逮捕され、死刑が確定した被告は、1987年、八王子医療刑務所で死去しました。

逮捕されてから39年、死刑が確定してから32年目の死です。

これだけ長い『待ち』は、歴代の法務大臣が署名をしなかったためといわれています。

「真犯人ではないだろう」と考えていた法務大臣もいたそうです。

もし署名したならば、死ぬまで、死んでからも「帝銀事件の被告を死刑にした」といわれるでしょう。


今回の法務大臣による死刑執行命令について、某新聞はコラムで『死に神』という表現を使いました。

それに対して法務大臣が不快の念を表明し、某新聞には1800件の抗議、意見がありました。

20年前であれば、抗議、意見の先は違っていたでしょう。

犯罪の凶悪化、治安の悪化が影響していると思われます。


14年前(1994年)の6月27日は、長野県松本市の住宅地でサリンが散布され、7人が死亡しました。

サリンを散布した某新興宗教団体の『教祖』は翌年(1995年)5月16日に逮捕されました。

当初は裁判の様子がニュースになりましたが、最近はまったく聞きません。

そう思って、サイトで検索すると、2006年9月15日、最高裁判所は特別上告を棄却して、死刑が確定していました。

さて、いつ執行されるのでしょうか。

忘れたころにでしょうか。
posted by 陳澤民 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月21日

カタカナ語を『ごまかし』の手段に使うな!

今から47年前の1941年6月22日、ドイツがソ連領内に侵攻を開始しました。

当時は第二次世界大戦の中盤で、半年後に日本がアメリカと戦いを始めます。


ドイツに駐在していた、ある新聞記者がドイツの同盟国のハンガリー軍とともにソ連戦線へ向いました。

いわゆる『従軍記者』です。

その記者はハンガリー軍の『プロパガンタ・カンパニー』の客としての待遇を受けます。

日本人は『カンパニー』というと『会社』を連想しますが、この場合は軍事用語で使われており、『中隊』の意味です。

『プロパガンタ』は一般には『宣伝』と訳されています。

現在のテレビ、新聞でもそうですが、『宣伝』とは『良い点だけを言う。悪い点は言わない』が鉄則です。

戦争では、『自軍の戦果は10倍に、損害は10分の1に』となります。

これが、太平洋戦争の日本では『大本営発表』となり、この表現は現在でも使われています。


『プロパガンタ』には、まだ意味があります。

そのひとつが『世論誘導』です。

その例が1991年の湾岸戦争です。

クェートの少女が涙ながらに、イラク軍の暴虐を告発している会見がテレビに流れました。

実は、あれはアメリカの演出で、いわゆる『ヤラセ』でした。

アメリカ国民だけでなく、イラク以外の全世界にアメリカの行動を正当化する目的があったのです。


『プロパガンタ』は人間心理を利用して巧妙に行なわれます。

したがって、聞いたり見たりしたニュースが『プロパガンタ』か、そうでないかの判断は一般人には不可能です。


九州のある県の知事が県民との対話集会で、『カタカナ語』を連発して話題になっています。

地方紙に、それへの感想が掲載されました。

   答えにくい質問には英語を交えてさっとかわす。頭がいいな、という印象を受けた。

これは、38歳の地方公務員の感想です。

公務員ですから、悪くは言えないのでしょう。

一般人の感想では『頭がいいな』ではなく、『悪賢いな』または『ずる賢いな』です。


もうひとつの感想は、

   あんまり難しい英語を使っても分からん。どうせなら、その地域の方言で遊説してみたら。

78歳の男性の感想です。

年齢に関係なく、これが一般人の感想でしょう。


県の広報課は、ホームページに知事の発言の全文を掲載しています。

難解な『カタカナ語』には『日本語訳』!をつけています。

その中に『プロパガンタ』があるのです。

ホームページでは『プロパガンタ』を『世論喚起活動』と訳しています。

この訳を考えたのが、知事か広報課かはわかりませんが、『プロパガンタ』の意味を理解していないようです。

正確には『世論を県の都合のよい方向に誘導する』です。



『カタカナ語』が多いことについて、知事は「会見では焦るとつい出てしまう」と自己分析したこともあるそうです。

しかし、この知事の経歴を見ると、日本生まれの日本育ちで、英語圏への留学経験はありません。

しかも大学卒業後は、自治省(現在の総務省)に入省し、4年前に知事に当選するまで、地方行政を担当しています。

なぜ『カタカナ語』が多くなるのか、一般人にはわかりません。


『英語圏へ留学するとカタカナ語が多くなる』は偏見であると考えます。

異言語を体験した人は、他人との会話に十分注意し、相手が理解できない単語を使うはずはないからです。
posted by 陳澤民 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月20日

台湾の鉄道ファン

話のネタで「日本の中心(ヘソ)はどこか」があります。

現在の政治経済の中心は東京ですが、上記の「中心」は地理上の「中心」です。

地理上の「中心」の位置の求め方は何通りかあります。

一番簡単な方法では、最北端と最南端の緯度から「中心」の緯度、最東端と最西端の経度から「中心」の経度を求めます。

それによれば、石川県の片山津が「日本の中心」です。



昨日のブログで東京の「副都心線」について書きました。

その地下鉄路線は東京メトロ(旧称は営団地下鉄)の路線です。

新宿には東京都庁がありますが、東京メトロから見れば『副都心』であって、『都心』ではないようです。

2001年12月、池袋、新宿、渋谷を通る『湘南新宿ライン』が開業しました。

これは、既存の線路を使って、東北線、高崎線と東海道線、横須賀線に直通電車を運転するものです。


随分と昔ですが、東北線と東海道線の間に直通電車が運転されていました。

それは『湘南日光号』という『準急』(なつかしいですね)で、有名観光地である日光、箱根、熱海を結んでいました。

当時は、上野と東京間は、山手線、京浜東北線以外にも線路があり、それを利用していたようです。

『湘南新宿ライン』が開業する前は、東北線、高崎線の電車は大宮始発を除くと、全て上野始発でした。

ただし、朝夕の通勤時間帯には、東京駅発着の電車がありました。


さらに前ですが、常磐線の通勤電車が有楽町まで乗り入れていました。

といいましても、さすがの私もその記憶はございません。


東京に住む東北地方出身者は、上野駅に来ると故郷に帰ったように思うそうです。

ある詩人は、故郷の訛を聞きに停車場へ行っています。

私の故郷は北関東で、近くを『湘南新宿ライン』が走っています。

それでも、帰省には上野駅を使います。

新幹線は使いません!

普通運賃より特急料金が高いからです。


1991年6月20日、東北・上越新幹線が上野から東京まで延伸されました。

あれから、もう17年もたってしまいました。

かつての台湾・台北駅は、上野駅を模して作られたといわれています。

しかし、地下化されて永遠に姿を消してしまいました。

その台北駅から南へ向かう列車が、最初に停車、または通過する駅が『萬華(ばんか)』です。

これも『かつての』がつきますが、『萬華』駅は木造平屋建てで、日本統治時代の面影を200%残していました。

東京でいえば、新橋にあたる場所に、日本統治が終了してから、40年以上も残されていたのが不思議でなりません。

できれば、どこかへ保存してくれればよいのですが。


最近では、台湾にも『鉄道ファン』がいます。

『鉄道』は、金またはヒマがないと楽しめない趣味です。

飲まず食わずの生活では、到底楽しめません。

そして、自由に行動できなければなりません。

かつてのソ連、現在でも中国では、『鉄道ファン』の生息は不可能です。

そういう国に生まれなくて幸せでした。
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2008年06月19日

最初から、うまくは行きません

6月14日(土)、東京に新しい地下鉄が開業しました。

山手線の西側の三大繁華街である池袋、新宿、渋谷を結びます。

西武池袋線、東武東上線からの直通電車があり、乗り換えなしで池袋から渋谷までは急行で11分です。

山手線で行くより4分も早いとの宣伝です。

ただし、電車がダイヤ通りに運転されていれば、の話です。

この『副都心線』は、開業日早々からトラブルに見舞われました。


停電、電車の遅れ、いずれも乗客への迷惑になるものばかりです。

原因はいろいろありますが、そのひとつが『小竹向原(こたけむかいはら)』という駅の構造にあります。

この駅の線路配置は、X(エックス)の字を思い浮かべるとわかります。

朝の出勤時間帯は、西武池袋線、東武東上線が通勤客を満載して到着します。

西武池袋線の電車の行き先は運転ダイヤによって、地下鉄有楽町線、副都心線に行き先が変わります。

一方の東武東上線も地下鉄有楽町線、副都心線に分かれます。

つまり、この駅への到着が2パターン、出発が2パターンで、全体としては、2かける2で、4パターンです。

乗客も駅員も、慣れるまでは戸惑うかも知れません。

このような運転形態は、東京では初めてです。


電車がダイヤどおりに運転されていれば、問題はないのですが、通勤時間帯はどうしても遅れます。

遅れた場合、それを調整する機能が働かなければ、乗客はすし詰めの電車内で汗だくになるほかありません。

今朝のニュースで、ある交通評論家が「この運転形態に問題がある」と指摘していました。

といっても、これを変更することは困難です。


「何事も始めはうまくいかない」と割り切って、習熟するまで待つほかはなさそうです。

幸いにも、私は利用しませんので、きわめて鷹揚になれるのです。
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2008年06月18日

台奸、漢奸、そして日奸

5月20日、台湾で馬英九氏が総統に就任し、国民党政権が復活しました。

それから1ヶ月弱ですが、日本と台湾の関係に、その影響が徐々にあらわれてきました。

先日の尖閣列島における日本巡視船と台湾漁船の接触事故の対応についてです。

台北県長(県知事)は、ヒートアップして「軍艦を派遣しろ」と発言しました。


ご承知の通り、日本と台湾との間には国交がなく、『民間団体』を窓口をして、相互に事務所を設置しています。

日本には東京を含む数箇所に台湾の『台北駐日経済文化代表処』があります。

その最高責任者は『代表』という役職名ですが、総統から任命された、実質は『大使』です。

現在の代表は許世楷氏です。

許氏と夫人は、台湾独立に参加したため、数十年も帰国できませんでした。

国民党政府から逮捕状がだされており、もし帰国すれば裁判にかけられて死刑になる恐れがあったのです。


その許代表に台北から召還命令が発せられ、帰国して今回の衝突事件の経過を報告しました。

その報告に対して、国民党の立法院議員(日本の衆議院議員に相当)から「許氏は『台奸(たいかん)』だ!」という発言がでました。

『奸』は『裏切り者』『反逆者』の意味があります。

『台奸』とは『台湾人の裏切り者、反逆者』の意味です。

許氏の報告が、国民党からは、あまりに『日本寄り』に見えるのでしょう。


日本の時代劇で、お家騒動があると「かんぶつを叩き斬れ!」というセリフがでます。

その『かんぶつ』は『奸物』です。

もっと強い意味では『売国奴』があります。


いずれにせよ、『女』へんがついていますから、現在では女性から「セクハラだ」と抗議があるでしょう。

中国の歴史を読むと『漢奸(かんかん)』という文字が出てきます。

これは『漢民族の売国奴』の意味です。


中国の現代史では汪精衛(汪兆銘)が『漢奸』と呼ばれています。

汪精衛は蒋介石と匹敵する国民党の実力者でしたが、太平洋戦争中に日本に協力しました。

そのため、現代に至っても、中国、台湾の双方で『漢奸』の汚名を着せられています。


台湾人は中国人とは別の民族になっていますが、それでも『奸』といわれることは屈辱以外の何者でもありません。

江戸時代の武士が口にする「武士の一分がたたない」「恥辱」です。

許氏は辞表を提出しましたが、受理されていないようです。


もし、国民党政権が日本人の台湾感情を和らげようとするならば、許氏を引き続いて代表とするでしょう。

しかし、「そんな必要はない」と考えるならば、対日強硬派、または反日派を起用するかも知れません。


もちろん、私は日本と台湾の武力衝突を望むものではありません。

はたして、馬総統が強硬派を抑えられるかどうか、お手並み拝見です。

この事件の背後に、某国の影を感じるのですが、考えすぎでしょうか。
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2008年06月17日

1900億円は、どこに消えたか?

今朝、出勤前にニュースを見ていると、懐かしい映画の題名の一部を耳にしました。

それは『マルサ』です。

といっても、映画の宣伝ではありません。

昨今の脱税摘発状況です。

現在はFX取引が主婦に人気がありますが、この利益を申告せず脱税となる事例が多いようです。

このFX取引は大きな利益がある場合もありますが、下手をすると大変な損失をこうむる場合もあります。

いわゆる『ハイリスク、ハイリターン』です。

詐欺まがいの勧誘があるようですが、なぜか我が家にはやってきません。


詐欺師という職業は、日本だけでなく世界の動き、人間心理を理解しなければ『仕事』はできません。

バカではできない職業です。

一時期、盛況を極めた『振込詐欺』は最近は耳にしません。

しかし『なんとかは忘れた時』にやってきますから油断はできません。


『世界一』が登録されているギネスブックには『詐欺師』の分野はあるのでしょうか。

もし、あるとすれば『悪徳ペーパー商法』のT商事の被害額は、ギネスに登録される資格十分でしょう。

なにしろ、数万人から2000億円をだましとったのです。

『数万人』を5万人と仮定しても、一人平均400万円です。

当時はバブルの時代でしたから、よほど金が余っていた人が多かったようです。


1985年6月18日、その首謀者のN会長が自宅に押し入った男2人組に視察されました。

その男2人組は深夜ひそかに押し入ったのではなく、たくさんの報道関係者が注視しているのに、凶行におよびました。

その時、報道関係者は何をしていたのだ!と非難されました。

同じことは、10年後、某新興宗教の幹部が殺された時にもありました。

あれは実況中継付きの殺人でした。


T商事のN会長、某新興宗教の幹部の殺人は、単なる『天誅』でなく、これ以上の真実が明るみに出ては困る人たちの『しわざ』かも知れません。

こういう思考形態を『陰謀史観』というそうです。



T商事の破産管財人として、ある弁護士が腕をふるいました。

そのおかげで、100億円を回収できたそうです。

しかし、全体の5%です。

残りの1900億円は、どこへ消えたのでしょう。

某国、N田町、はたまた我々がまったく考えも予想もできないところでしょうか。



100億円の回収に腕をふるった弁護士が中坊公平です。
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2008年06月16日

大地が崩れるこわさ、何にたとえるべきか?

世の中の怖いものとして『地震、雷、火事、親父』があります。

残念ながら、遺憾ながら、誠に不本意ではありますが、四番目は現実世界では引退すべきと考えます。

現在でも威力を発揮しているのは『サザエさん』の磯野波平氏だけであります。

しかし、その波平氏もお舟さんには、頭が上がらないことは、一度でもご覧になればわかります。



一番目は、昔も今も『健在』です。

阪神大震災、中国四川大地震の惨状を見れば、なおさらです。

雷、火事は、命さえ無事であれば、元の場所に生活を再建することが、100%ではありませんが可能です。

しかし、大地震で人間の生活の基盤であるべき大地が崩壊しては、ほとんど不可能です。

中越地震では、村そのものがなくなりました。

栗原市の『駒の湯温泉』は、もはや再開は不可能でしょう。

地震によって、源泉そのものが消滅した恐れがありますから。



1964年6月16日、新潟沖地震が発生しました。

新潟市内の『万代橋』が崩壊した写真は、いまでも覚えています。

私が昼食をとりにいく店の経営者家族は、新潟の出身です。

地震当時は東京の東横線沿線に住んでいましたが、かなりの揺れであったそうです。

東京でそれだけの揺れでしたから、震源地に近い新潟の揺れが想像できます。


この地震で『液状化現象』という言葉が一般に知られました。

新潟の『潟』は、信濃川という大河に関連した地名につけられる字です。

信濃川が日本海に注ぐ地に発達した都市です。

地盤がそれほど頑丈でないのでしょう。


先日、地震に関する特集番組を見ました。

ある学者が関東大震災における当時の東京市内の震度を調べました。

それによれば、わずかの距離の違いで震度が大きく違っていました。

震度が大きかった場所は、川や池を埋め立てていたのです。

江戸時代の地図を見ると、それが明らかです。

たとえば、地下鉄の駅名に『溜池山王(ためいけ・さんのう)』があります。

ここには、江戸時代には上野の不忍池とおなじ面積の池がありました。

江戸から東京、そして東京の発展とともに埋め立てられました。

わずかに地名、駅名、バス停留所名に残るのみです。


母なる大地をコンクリート、高層ビルで覆ってしまった『ツケ』が、いま突きつけられているのでしょう。
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2008年06月15日

『いただきます』から『ピッ』へ

目的が仕事であろうと、観光であろうと、外国へ行く場合、心得ておくべきことがあります。

第一は『マナー』『礼儀』、第二は訪問先の国の『挨拶の言葉』です。

もしパーティ、会食でスピーチを頼まれた場合、本文は日本語でもいいでしょう。

おそらく、通訳がいるでしょうから。

それでも、最初と最後の挨拶は、その国の主要言語で行なうべきです。

自分たちの言語で挨拶されれば、うれしいものです。

日本へのイメージ向上に役立つかも知れません。


日本の習慣では、食事の前に「いただきます」、終わりには「ごちそうさま」といいます。

「いただきます」は、キリスト教徒のお祈りにあたるでしょう。

いずれも、食べ物に感謝するほかに、その食べ物を作った人、運んだ人、調理した人、そして神への感謝があるはずです。


日本のある学校では、その「いただきます」に、親から苦情がきました。

そのために、それをやめて、給食を食べ始める前に担任が『ピッ』と笛をふくそうです。

『苦情』には、次の二つがあったそうです。

   給食費を払っているのに、なぜ感謝しなければならないのか。

   『いただきます』は宗教用語であり、これは宗教教育である。

こんな『苦情』をいう親も親ですが、唯々諾々と受け入れてしまった学校も学校です。

私がこれを知ったのは、あるメールマガジンからです。

半信半疑、ネットを検索したのですが、何件もありましたから、『ガセ』ではないようです。

もちろん、私は『冗談』だと思いたいのです。
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2008年06月14日

東北で地震発生!

日本国内の人々は外国人も含めて、現在は47都道府県のいずれかに住んでいます。

その47都道府県は、明治維新当時にかつての幕府直轄地、旗本、大名領を再編成したものですが、1回では収まらず、何度か改編して現在の形になりました。

それとは別に、奈良時代の律令に規定された『旧国名』もなんらの形で意識に残っています。

たとえば、長野県を『信州』または『信濃』というたぐいです。


旅行会社では『長野の旅』よりも『信州の旅』『信濃の旅』が、お客さんの『食いつき』がいいそうです。

長野県民、長野県出身者なら誰でも知っている、歌える『長野県民歌』の冒頭は『信濃の国は十州に境連ぬる国にして』です。

もし、『長野県は』で始まっていたならば、あれほど県民の愛唱歌になっていたかは、わかりません。

長野県には『南信北信』の対立があるといわれています。

南信(松本市)の北信(長野市)への対抗意識があるといわれています。

長野県には、南信、北信の他には、伊那、佐久、諏訪があります。

ほっておくと、バラバラになりそうなので、『県民歌』で結びつけているのだ、という見かたもあります。


先週の東京・秋葉原の通り魔事件の容疑者の故郷は青森ですが、ただ『青森』と一口でいえるほど、簡単ではありません。

西部の津軽地方と東部の南部地方では、意識が大きく異なるそうです。

現在の県庁所在地は中央部の青森ですが、江戸時代の津軽家の居城があった弘前からみれば、青森は辺境でした。


東北新幹線が延長された青森県八戸は太平洋岸有数の漁港であるともに、コンビナートがある都市です。

以前、私が旅行の途中で一泊し、夜に市内を散歩すると、みやげ物店に『南部せんべい』が置いてありました。

それも客によく見える位置にです。

『南部せんべい』といえば、岩手県のおみやげと思っていましたが、県境を超えた青森県八戸でも売っていたのです。

それで思い出したのは、八戸の人は東京への陳情には、青森県選出でなく岩手県選出の国会議員に、まずお願いするそうです。

盛岡に居城を持った南部氏は現在の山梨県が遠祖の地です。

山梨県に『南部』という地名が残っています。


本日(6月14日)早朝、東北北部で大地震が発生しました。

ニュースでは、駅構内に停車した新幹線車内が映し出されました。

一人だけ乗っていた中年の男性は同窓会で京都まで行く途中でした。

おそらく、本日の夜に京都で同窓会があるのでしょう。

はたして、間に合うかどうか、、、です。

もし、同窓生が見ていたならば、元気であることを知らせることはできました。
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2008年06月13日

信玄、父を追放す

最近は1週間に2〜3回は、家族が経営する居酒屋で昼食をとっています。

その家族は新潟の出身です。

カウンタに座ると、目の前に棚に『景虎』のラベルが貼ってある一升瓶が見えました。

『景虎』は上杉謙信が出家する前の名です。



上杉謙信のライバルといえば、武田信玄です。

もし、この二人が越後、甲斐でなく、もっと京に近い国、たとえば尾張、三河に生まれていれば、天下を取れたかどうかは、面白い議論のネタです。

ライバルと言っても、二人の性格は対象的です。

単なるイメージとしては信玄が『動』であれば、謙信は『静』です。



イメージが『動』だからではありませんが、信玄は父を『追放』しています。

天文10年(1541年)年6月14日、信玄は父・信虎を領国の甲斐から追放しました。

『追放』と書くと、人倫にもとる行為のようですが、当時の戦国時代では、親子、兄弟、叔父・伯父と甥の間意でも自己の利益にならなければ、抹殺しています。

血がつながっているからこそ、自分にとって変わられる恐れがあると考えていたのでしょう。

それから見れば、『追放』という処置は、きわめて穏便です。

『追放』は父と息子の『なれあい芝居』であったという説もあります。



当時、父・信虎は駿河の今川家を訪問していました。

当時の今川家の当主・義元は信虎の娘婿です。

その留守中に息子の晴信がクーデターを起こして、父の帰国を阻止したのです。

現在でも、元首、最高権力者が外国訪問中に、実力者が政権を奪取する例があります。

日本で大阪万博開催中、カンボジアのシアヌーク国王が中国訪問中にロン・ノルがクーデターを起こしました。

これによりシアヌークは帰国できなくなりました。



この記事を書くため調べてみると、父・信虎は追放後は33年も生き延びて、なんと80歳で死去しています。

当時としては、驚くべき長寿です。

それに対して、息子・信玄は元亀4年(1573年)、52歳で死去しました。

信玄の死後、信虎は甲斐へ戻り、武田家の当主となった孫の勝頼と対面しました。

その翌年の天正2年(1574年)3月、信虎は大往生をとげました。

したがって、8年後の孫・勝頼の死、そして武田家の滅亡を知らずに旅立てたのです。
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2008年06月12日

最初の『将軍様』は誰でしょう?

営業マンの心得のひとつが、売り込み先、企業でいえば、誰を集中して攻めれば、契約できるかを見極めることです。

企業の最高責任者は社長ですが、社長が首を縦に振ったからといって、喜ぶのは早すぎます。

現場の担当者が首を横に振れば、それで『終わり』という場合も珍しくはありません。

特に専門技術、特殊技術で、社長などの経営陣がそれを理解していなければ、現場の考えは無視できません。

まだ、コンピュータが世の中に普及しない頃は、私も体験しました。

私が所属した会社は国産のコンピューターメーカの代理店でした。

ある企業のコンピュータ室の担当者は20代前半ですが、こちこちの『IBM主義者』で、彼の意見には誰も逆らえなかったのです。



古今東西、既存の権威、秩序が失墜すると、実力、特に武力を持った者が世の中を動かします。

日本の歴史では、平安時代末期、戦国時代、幕末です。

戦国時代末期に日本を訪れた外国人は、日本の奇妙な政治体制に驚かされたでしょう。

『ミカド(天皇)』が京にいますが、まったく力を持っていません。

しかし、誰も『ミカド』を滅ぼそうなどと考えません。

京には『ミカド』に『任命』された『将軍』がいて、『幕府』という政庁を持っています。

『将軍』『幕府』は、もはや有名無実です。

では、京では誰が実権を持っていたか、それは『将軍』の『臣下』である織田信長です。

日本でキリスト教を広めたいと考えていたポルトガル人、スペイン人は、布教の許可を誰に申請していいか、悩んだでしょう。



日本以外の国では、『将軍』は司令官クラスの軍人の呼称であって、政治的実権を持つものではありません。

その『将軍』が日本では政治の実権を持っている、しかし、その上に『ミカド』がいる、このような状況を外国人が正確に理解できたのでしょうか。

日本での『将軍』は正式には『征夷大将軍』です。

794年6月13日、最初の『征夷大将軍』である坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、現在の東北地方へ遠征に出発しました。

桓武天皇は平安京に遷都した天皇であり、それが794年です。

東北遠征と平安遷都が、この天皇の二大政治目標でした。

いずれも、えらく金がかかる事業です。



ついでに、もうひとつ『将軍ネタ』です。

2000年6月13日、韓国の金大中大統領が北朝鮮のピョンヤンを訪問し、金正日総書記と会談しました。

北の金さんは、『将軍様』と呼ばれています。

金さんには、軍歴、軍籍がないのですが、なぜ、、、、、。
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2008年06月11日

総理大臣になると、何ができるのか?

鉄道を舞台にした推理小説の第一人者に西村京太郎がいます。

西村京太郎が創作した登場人物である『十津川警部』『亀井刑事』は、関東であれば土曜日の夜9時のテレビ番組の常連です。

他には『左文字進(さもんじ・すすむ)』という私立探偵がいます。

左文字進は父親がアメリカ人、母親が日本人です。

両親が亡くなったので、母の故郷である日本にやってきました。

最初のデビュー作は『消えた巨人軍』でした。

これは、移動途中の巨人の選手を誘拐するという事件です。

小説ですから、見事に解決し、探偵としての力量を世に知らしめました。



これも推理小説の常ですが、主人公が行くところ、事件が発生します。

とある事件で、なんと総理大臣官邸に行くことになりました。

そこで、官邸の主人である総理大臣に対面します。

今回の事件は「1億の日本国民を誘拐した。総理大臣として身代金を払え」です。

犯人の主張は『誘拐』という概念を根底から覆すものですが、長くなりますから、ここまでにします。


会議の中で、総理大臣は「国民は、総理大臣ならば何でもできると思っている。実現不可能な相談が毎日、まいこんでくる」とぼやきます。

戦前の総理大臣に比べれば、権限が強くなっていますが、だからといって仕事がやりやすくなってはいません。

相撲取りは横綱を目指すそうですが、政治家、少なくとも国会議員は総理大臣を目指すでしょう。

しかし、どのようにしても全国民の支持を得ることは不可能ですし、嫌われることも覚悟の上です。

心身が疲れることも多いでしょうし、夏休みでも緊急事態が発生すれば、東京に戻らなければなりません。

総選挙ともなれば、あちこちに応援にいかなければなりません。

場合によっては、応援に来ないでほしいといわれる総理大臣もいますが。



1980年6月12日、総理大臣の大平正芳が死去しました。

当時は、衆参同日選挙の真っ最中でした。

5月31日、過労による狭心症で緊急入院しましたが、現職の総理大臣として死去したのです。

街頭宣伝車の手すりに手をついて、苦しそうであった姿が新聞にのりました。

これが同情票に結びついて、自民党は記録的な大勝となりました。

支持者からみれば『仇討ち』なのでしょうが、野党が殺したわけではありません。


その20年後、群馬県出身の総理大臣が入院し、職務遂行が不可能になり、別な人物が総理大臣に就任しました。

その人物は失言乱発で2年足らずで辞職しましたが、いまだに元気はつらつです。
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