2008年05月31日

コンピュータと神様の関係

どれほど、科学技術が発達し、世の中が進歩しても、昔からの生活習慣を捨て去ることは難しいようです。

代表例として、結婚式は『大安』の日に、葬儀は『仏滅』『友引』の日を避ける、等です。

宝くじ売り場には、『本日は大安』と書いて、購買をあおっています。

ほかには『丙午(ひのえうま)』の迷信があります。

前回の丙午の年は1966年でしたが、この年の出生数は当時の平均より極端に少なかったそうです。

少ないといいながら、生まれた女性がいますから、迷信を信じない人もいたのでしょう。


最近の壁掛けカレンダには、『大安』『仏滅』『友引』などが記載されていないものがあります。

私は、それらを気にしませんが、書いてないと物足りなくは思います。

以前ですが、あるコンピュータメーカーのカレンダに、それらが記載されていました。

時代の最先端のコンピュータでも、科学以外の力が気になるのでしょうか。

ずいぶんと前ですが、コンピュータを導入する時に、神主にお祓いを依頼する企業がありました。

お祓いをしないと、コンピュータの故障が多くなるといわれていました。

当時のコンピュータのハードウェアは、現在に比べると信頼性がやや低かったことが原因かも知れません。


ハードウェアの信頼性は向上しましたが、ソフトウェアの信頼性も向上したかどうかは、はなはだ疑問です。

5年前の某メガバンクでのシステムトラブルは、まだ記憶にあります。

ところが、最近もある銀行のシステム統合でトラブルがありました。

本稼動前に行っておくべきテストの漏れがトラブルの原因のひとつといわれています。

他人のことは悪くいえないのですが、『のど元過ぎれば』なのでしょう。


1941年(昭和16年)5月31日、当時の内務省が『迷信暦』の発売を禁止しました。

『迷信暦』とは、大安・仏滅などの日の縁起や暦に附随する迷信などを記載した暦ですが、当時は権力による取締りの対象になったのです。

6ヶ月後には太平洋戦争が始まりますから、国内の引き締めのためかも知れません。

または迷信という『民間信仰』は『天皇制』とは相容れないと考えたエライ人がいたのでしょうか。
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2008年05月30日

東の海に『外国』が見えた!

現在の日本は島国で、どこの国とも陸上では境を接していません。

それでも、肉眼で『異国の地』を見られる場所が東西南北に1ヶ所づつ、計4ヶ所あります。

北は北海道の宗谷岬で、天候がよければ樺太南端が見えます。

南は沖縄の西表島で、これも天候が良ければですが、台湾の山々が見えます。

西は対馬の最北端で、日中でも朝鮮半島がうっすらと、夜になれば釜山の明かりが見せます。



さて、問題は『東』です。

たしかに見えますが、見える先を『外国』と言ってしまってよいかは疑問です。

それは北海道の東、根室標津(ねむろしべつ)から見える国後(くなしり)島です。

上記4ヶ所のなかで、私は宗谷岬と根室標津は、実際に訪れています。

宗谷岬への訪問は真冬の2月でしたから、樺太は見えませんでした。

雪は少ないのですが、強風で自分の体を飛ばされないようにするだけで、精一杯でした。

根室標津も2月でしたが、ここははっきりと見えました。

まさに、『目と鼻の先』で、山の木まで見えたと記憶しています。

こちらから見えるのですから、向こうからも見えるはずです。



国後は、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、択捉(えとろふ)とともに、日本は『北方領土』として領有権を主張しています。

公式には、ソ連、つぎのロシアが『不法占拠』しているのです。

ですから、単なる民間人が「外国が目の前に見えた」と言っているだけなら、まあいいとしても、政府や地方自治代の関係者が「外国である」ということはご法度です。

時刻表でも、巻頭の地図に鉄道がない『北方領土』を掲載しています。



民間人でもビザを取得して、『北方領土』へ渡航することは、日本の領有権を認めないことにつながるとして、厳しく制限されていたと記憶しています。

ところで、1990年5月30日、択捉への墓参が許可されました。

墓参りですから、この島で生まれ育った人が、先祖が眠る択捉へ渡るのです。

人道的配慮として許可されたのでしょう。

このためには日本だけでなく、当時のソ連の許可が必要です。

交渉の席では、双方の本音、建前が空中戦を演じたでしょう。



たかが数キロの距離なのに、墓参りに行くのに、半世紀ちかくかかりました。

「何の恨みがあって、我々をこのような目にあわせるのか」と思った人々がいたでしょうか。

ある作家が著書の中で「国境がなくならない限り、世界に平和は来ないだろう」と書いています。

その国境をなくすためには、さらなる気の遠くなる努力が必要でしょう。
posted by 陳澤民 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月29日

120年前のビールの味は?

は6月で、梅雨入りです。

五月晴れを体験すると、どうにもうっとうしい季節です。

それでも、それを我慢すれば、輝く夏の到来です。

夏といえば、誰が何といおうと『ビール』です。

誰も何もいわなくても『ビール』です。


酒は人類にとって、太古の昔からの飲み物です。

ピラミッド時代の古代エジプトには、すでに飲まれていました。

ピラミッド建設に従事した労働者にはパンとビールが支給されたそうです。

エジプトの『大家』吉村作治教授によれば、ピラミッドは『鞭と奴隷』ではなく、人民の自発的な信仰心から作られたそうです。

パンとビールは神様からのご褒美なのかも知れません。


以前、ビールのCMの一節に『ミュヘン、サッポロ、ミルウォーキー』がありました。

ビールで有名なドイツ、日本、アメリカの都市名です。

ほかには、チェコのピルゼン(現在はプリゼニ)も有名です。

ここには、ビールの研究所があり、この研究所が発行する品質鑑定書は、全世界で通用する権威があるそうです。


ソ連が華やかりし頃、ソ連ビール公団がその研究所へビールのサンプルを送り、品質の鑑定を依頼しました。

しばらくの後、品質鑑定書が送られてきました。

そこには、こう書いてありました。

   お国の馬の健康は問題ありません。

もちろん、これはソ連のアネクドート(皮肉をきかせたジョーク)です。

恥ずかしながら、私はすぐには、この面白さがわかりませんでした。

すぐわかった人は、さすが!です、ヒョウーショージョー、アンタはエライ!です。


さて、今日の東京は朝から雨です。

120年前の1888年5月29日、ジャパン・ブルワリー社がドイツ風ラガービールを『キリンビール』のブランドで発売しました。

ジャパン・ブルワリー社がいかなる会社であるかは、わかりません。

かつては『ビール業界のガリバー』といわれた『キリン』ブランドの誕生です。

本来の『キリン』は『麒麟』という想像上の動物ですが、いまや日本ではビールの代名詞です。


私が現在勤務している恵比寿は、かつて『ミュヘン、サッポロ、ミルウォーキー』の中の名をもつビールメーカーの工場がありました。

『エビス』は本来は『戎』『胡』『夷』であり、中国から見た異国の意味がありました。

それが日本に伝わり、商売繁盛の神様になりました。

時代が変わって、現在は『ビール』の名前です。

そして再開発の代名詞でもあります。


『キリン』といえば、息子が小さかった頃を思い出します。

当時の私は、自宅でビールを飲んでいました。

それを見た息子は、「パパのビールはキリン」と、よく言っていました。
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2008年05月28日

エライ人へ、、、、甘言に注意!

またまた昨日に引き続いて、大相撲ネタです。

あるスポーツ新聞に、夏場所優勝の琴欧洲のコメントが出ていました。

   モンゴルの進撃を阻止したのは、わが祖国ブルガリアだけだ。

   モンゴル人横綱の優勝を止めるのは、私以外にいない。

たしかに、ブルガリアは1241年にモンゴル軍の侵入を受けています。

日本の元寇の30年前です。

ただし、ブルガリアが『進撃を阻止した』かどうかは疑問です。

モンゴルの侵入の打撃で、ブルガリアは衰退し、150年後にオスマン・トルコ帝国に併合されています。


日本は元軍を撃退したといわれていますが、台風という自然の力が大きく貢献しての『天佑神助』でした。

鎌倉武士と元軍が平地で互角に戦っていたら、こちらに勝算があったかどうかは大いに疑問です。

当時の鎌倉幕府の実権は、まだ若い北条時頼にありました。

鎌倉幕府は、70年後に滅亡しています。

『撃退』に功があった武士に恩賞が与えられなかったため、武士の不満が高まった、が滅亡の理由のひとつとされています。


太平洋戦争で、まだ日本軍の勢いがあるとき、ある人が首相の東条英機に「北から襲来したモンゴルは北条氏が撃退しました。東から来るアメリカは、東条総理が撃退するのです」といいました。

まったくもって、歯の浮くような、お追従たっぷりのお世辞です。

これを聞いた東条英機がどういう感想を言ったかは不明です。

とかく、部下は権力者に耳に心地よいことばかり、言うものです。

権力者も、そういう部下を重用しがちです。

しかし、そうなると自分自身だけでなく、国の前途を誤ります。

さて、現在の総理は大丈夫かな?
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2008年05月25日

ヨーグルトだけではありません、、、ブルガリアの歴史紹介

昨日(5月24日)、大相撲夏場所で大関の琴欧州が千秋楽を待たずに優勝を決めました。

琴欧州の祖国、ブルガリアはヨーロッパのバルカン半島にあります。

ヨーロッパ出身の力士の優勝は大相撲史上では初めてです。


『バルカン半島』といえば、我々は『スラブ人が住む土地』を連想しますが、それがなかなか、そう簡単ではありません。

そもそも『ブルガリア』という国名が、アジアからきたトルコ系の遊牧民族であるブルガール人に由来しています。

トルコ系といっても、現在のトルコ共和国に住むトルコ人と同じ民族であるかは、非常に疑問です。

現代の我々が使う『民族』は、しばしば政治的な動機、意図があって使われています。

トルコは第一次世界大戦ではドイツの同盟国となり、敗北しました。

敗北後のトルコ共和国の建国の父は、ケマル・アタチュルクです。

ケマル・アタチュルクが新国家建設に伴う、国民統合のため「我々の祖先は、はるか昔に中央アジアから移住した」という『神話』を作りました。

中国の唐朝の歴史には、『突厥』『鉄勒』という北方民族の名称が出てきます。

これは『チュルク(トルコ)』の音訳と考えられています。

ブルガール人が中央アジアから移住したことは史実ですから、彼らはアジア人なのです。

現在のモンゴル人も広い意味では『トルコ系』と考えられています。


ブルガール人が現在のブルガリアへ移住して、この地の民を征服したのが681年です。

日本の大化の改新(645年)の36年後です。


現在のブルガリアの地は、それ以前はギリシャ、ローマの統治下にありました。

ブルガリアの北にあるルーマニアには、ローマ帝国時代に、ラテン系の人々が移住しました。

こじ付けといわれるでしょうが、『ルーマニア』は『ローマニア』が変ったものかも知れません。

さらに、スラブ人が南下して定住します。

ブルガール人が征服した先住民は、ギリシャ人、ローマ人、スラブ人が複雑に混血、融合していたのです。

その融合に、アジア系のブルガール人が参加して、現在のブルガリア人が出来上がりました。


1242年、モンゴル軍の侵入を受けました。

日本の元寇の30年ほど前です。

この打撃により中世ブルガリア帝国は衰退して、1392年、オスマン・トルコ帝国に滅ぼされました。

日本では南北朝の末期です。


これから19世紀末に独立を回復するまでの500年間、トルコの支配を受けます。

日本の台湾統治は、その十分の一の50年間ですが、それでも台湾と中国を別の国家、民族に変えてしまいました。

この500年間がブルガリアの言語、風俗に与えた影響は大なるものがあったといわれています。


第二次世界大戦中は、ドイツ側の一員でした。

大戦末期にソ連軍が進攻し、大戦後は共産主義国となり、ソ連の忠実な『衛星国』のひとつでした。


しかし、1989年、東ヨーロッパを席巻した民主化の波の前にあえなく崩壊しました。

そして、その国から来た一人の青年が『綱取り』をめざしているのです。
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2008年05月24日

地球の『裏側』から津波がやってきた日

中国伝来のナニ思想というかはわかりませんが、『陰陽』という考えがあります。

あらゆる事物に存在する『二面性』をあらわしているのでしょうか。

中国では、山の南側を『陽』、山の北側を『陰』とよんでいます。

日本では、中国地方の瀬戸内海沿岸を『山陽地方』、日本海岸を『山陰地方』とよんでいることは皆様がご承知のとおりです。

川の場合は逆になり、南側が『陰』、北側が『陽』です。


始皇帝で有名な秦の都は咸陽(かんよう)でしたが、ここは山の南、川の北にあり、どちら(咸)も『陽』であったから、その名がついたと伝えられています。


かつては地域のわけかたで、『表(おもて)』『裏』を使っていました。

たとえば、日本の太平洋岸は『表日本』、日本海岸を『裏日本』と呼んでいました。

これは、明治以後の欧米に目が向いていた時代の産物でしょう。

それ以前は、アジア大陸と接する日本海側が『表日本』であったのです。

おそらく、『裏日本』に住む人々からの苦情で変えられたのでしょう。

現在は、よほどバカなアナウンサーでも、使わない用語です。


かなり以前ですが、南アメリカ諸国を日本の『裏側』にある国と呼んでいました。

たしかに、日本から見れば『裏側』ではありますが、これも使われなくなり、日本の『反対側』とよんでいるようです。


サザエさんでは、『裏のおじいちゃん、おばあちゃん』が登場します。

その呼び方で、これまで問題がおきていないのはなによりです。



1960年5月24日、東北地方の三陸海岸に大津波が押し寄せ、142人の死者を出しました。

津波の発生元は、南アメリカのチリで5月23日(日本時間)に起きた地震です。

チリから日本までの距離は正確にはわかりませんが、『反対側』であれば、2万キロです。

24時間で到達していますから、時速800キロです。

新幹線よりはるかに速く、小型飛行機と同じスピードです。


現在は技術の進歩で、的確に把握できるでしょうが、その情報を有効に使わなければ、無意味です。

サイクロンに襲われたミャンマーが、それを証明しています。
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2008年05月23日

『エスニック』は料理の名前にあらず!

最近、昼食に行く店は夜になると居酒屋に変身します。

その居酒屋では、壁に小さな黒板がかけてあり、『本日のおすすめ品』がチョークで書いています。

今日は、『氷下魚』が右端に書いてありました。

これは北海道で取れる魚で『こまい』と読みます。

25年以上前に、仕事で北海道へ行き、先方の担当者と行った居酒屋で初めて知りました。

駅、空港では『ホワイトチョコレート』『白い恋人』ほどではありませんが、北海道のおみやげとして並んでいます。


なぜ、『氷下魚』を『こまい』と読むのでしょうか?

単なる私の推測ですが、『こまい』はアイヌ語で、『氷下魚』は生態を見た日本人が『氷の下に住む魚』からつけたのでしょう。

北海道の地名の多くは、アイヌ語の読みに合わせた漢字をあてています。

それは『音訳』ですが、『こまい⇒氷下魚』は『意訳』です。


北海道には『北海道ウタリ協会』という団体があります。

『アイヌ民族の尊厳を確立するため、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展を図ること』(協会のホームページから)が目的の団体です。

『ウタリ』はアイヌ語では『同胞』という意味です。

『アイヌ』は神(カムイ)に対する『人間』です。

この団体名は、1946年に『北海道アイヌ協会』として設立されました。

しかし、『アイヌ』が差別感を含む蔑称となったことから、1961年に現在の名称に変えられました。

自分たちの民族名が蔑称となることは、誇り高い人々には耐えられないものであったに違いありません。

『部落差別』と同じに、現在でも彼らへの差別が残っているのでしょう。

しかし、それでも『アイヌ=人間』を堂々と名乗ろうとする人々に、敬意を表します。


5月20日、台湾では国民党の馬英九氏が第12代総統に就任しました。

馬氏の就任演説の中に、次の一節(台湾で演説草稿を日本語に翻訳)があります。

   我々はエスニックグループ及び新旧移民間の調和を促進させ、政党間の良性競争を提唱し、
   メディアの政府に対する監督や報道自由を存分に尊重します。

『エスニック』という単語が出てきました。

日本人は『エスニック』というと、東南アジアの料理を指すと思っていますが、とんでもない勘違いです。


それはともかく、馬氏の演説にあった『エスニック(Ethnic)』とは『民族』『出身地ごとの集団』を指していると思われます。

かつての台湾には『本省人』と『外省人』があり、融和よりも対立がありました。

なおかつ『本省人』のなかでも、大陸の出身地ごとの意識も残っていました。

しかし、1949年、国民党政権が台湾に『移転』してから来年で60年です。

日本の台湾統治より10年も経過してしました。

台湾に住む『エスニック』が、どれだけ融合したのか、しなかったのは、私にはわかりません。

さらには、もうひとつの『エスニック』、日本では『高砂族』、台湾では『山胞(山地同胞の略)』と呼ばれている集団があります。

彼らは「我々を原住民と呼んでほしい」と政府に要望し、現在では『原住民』が正式名称です。

彼ら自身も、南方から黒潮に乗って台湾にやってきた人々の子孫ですが、「自分たちこそ、最初の台湾人」という誇りがあるのかも知れません。
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2008年05月22日

たかが『ゴミ』と侮るなかれ!

先日(5月18日)、太平洋戦争中の不発弾処理が行われた調布(ちょうふ)市は人口22万の東京・多摩地区の都市です。

調布市の隣は府中市です。

府中市は東京競馬場、そして三億円事件の現場として知る人は知っています。

府中市には、かつての武蔵国の国府が置かれていました。

武蔵国は現在の埼玉県、伊豆七島を除いた東京都、そして神奈川県東部が含まれていました。

奈良時代、国府の近くには国分寺が建立されました。

その名残が国分寺市、中央線の国分寺駅です。

『地名は歴史の缶詰』と言われています。


『府中』はもちろん、『調布』、調布市内の『国領(こくりょう)』『給田(きゅうでん)』という地名も、国府があった時代の名残です。

その当時は、現在の東京23区は、武蔵国の辺境でした。

現在の東京湾が内陸深く入り込んでいましたから、現在の中央区、港区、墨田区、江東区、そして『ウォターフロント』は海の中でした。

それが現在のようになったのは、家康以来の埋め立ての成果です。

特に江東地区は、江戸100万市民のゴミを埋め立てて作られたと言われています。


明治になっても、ごみによる埋め立ては続きました。

それが『夢の島』です。

東京の他の区からゴミが運び込まれました。

23区で出されたゴミの70%が江東区に運ばれたといわれています。

江東区民からみれば、「ここは、ごみ捨て場ではない!」といいたくなるでしょう。

ついには、ゴミの持込を実力で阻止しようと人があらわわました。

1973年5月22日、江東区議会議員が杉並区からのゴミ運搬車が『新夢の島』に入ることを阻止しました。


以前は、過疎地帯への産業廃棄物の不法投棄がありました。

その取締りが厳しくなると、外国へ『輸出』する業者が現れました。

多くは発展途上国への『輸出』です。

当然ながら、いくら金になるからといって、自分の国土をゴミに埋もれさせることを喜ぶ人はいません。


現在の『究極のゴミ』は原子力施設から出る『核のゴミ』です。

人類が滅びた後も、毒性を出す核物質があるそうです。

そうなると、宇宙に捨てるほかはありませんが、幸か不幸か、現在の人類には宇宙への運搬手段がありません。

それでいいのでしょう、宇宙は地球人類だけのものではありませんから。
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2008年05月21日

『モンスター・ペアレント』など、いなかった時代

大阪の知事さんは『借金減らし』で毎日、知恵を絞っています。

改革を始めようとすると、どうしても『総論賛成、各論反対』になります。

いくつかの案の中で私が『?』と首をひねるものがあります。

それは『警察官の500人削減』と『学校の学級編成を40人に戻す』です。

私はベビーブーム真っ盛りの生まれで、故郷の小学校の私の学年は12クラスもありました。

中学校では60人の学級がありました。

まさに、ひざつき合わせて座っていました。

最近は、少人数学級が主流です。

息子か通っていた私立の中学校は、入学生が108人であったため、3クラスにわけて、1クラスが36人でした。


ただし、少人数クラスは、費用がかかるため、なかなか導入は難しいようです。

『教育は国家百年の大計』といいますが、いざとなると『金』がネックになります。

それにクラス人数を減らせば、『なんでも万歳』であるかは疑問です。

ある程度の人数がいなければ、切磋琢磨して成長することは不可能であるという論者もいます。

究極の少人数クラスは、『生徒1人に教師1人』ですが、それでは生徒がかわいそうです。

教師の目が常に自分に向けられているかと思うと、居眠りもできません。

先ほどの『学校の学級編成を40人に戻す』が教育論から出されたのであれば、まあ聞けなくもありません。

しかし、単なる借金減らしのためであれば、「考え直しなさい」と言いたくなります。


ところで、今日は『小学校開校の日』です。

139年前の明治2年(1869年)5月21日(旧暦か新暦かは不明です)、京都に日本初の小学校『上京第二十七番組小学校』が開校しました。

住民が自分達で資金を調達して開校した小学校です。

明治新政府は生まれたばかりで、財政難であり、小学校を建設する費用がなかったのでしょう。

校名に『上京』がありますから、京都市内でしょうが、民間でも次代を考えていた人がいたのです。

いかなる学校運営がなされていたかはわかりませんが、少なくとも『モンスター・ペアレント(理不尽な要求をする親、または保護者)』はいなかったでしょう。
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2008年05月20日

ボタンの掛け違い! 初めが肝心です(成田空港開港記念日)

寄席番組『笑点』には『大喜利』コーナーがあります。

例として出題者が「一枚でもセンベイとはこれいかに?」という問いをだします。

回答者が「一個でもマンジュウというがごとし」と鮮やかに切り返して拍手喝采をうける場面があります。


地名に関して「千葉県にあっても、新東京国際空港とはこれいかに」と問われたら、どう答えますか?

無理にでも、本日の主題に関した答えを出さなければなりませんから「千葉県にあっても新東京国際空港というがごとし」です。

もっともこれでは座布団を取られますね。

(2004年4月1日、成田国際空港が正式名称になりました)


新東京国際空港の開港が30年前の1978年5月20日です。

当初は3月30日に開港の予定でしたが、その4日前に空港反対を主張する過激派が管制塔を襲撃、機器類を破壊しました。

周囲のガラスが破れた管制塔の写真が新聞一面を飾りました。


成田・三里塚地区への国際空港建設の閣議決定は1966年でした。

当時は佐藤栄作氏が総理大臣です。

自民党は本来が農村を基盤とした政党です。

三里塚地区の住民はほとんどが農民でした。

政府は『お上の御威光』と『札束』によって、農民は簡単に土地を明け渡すと思ったのでしょうか。

それとも、自分と同じで、農民も金には弱いと思ったかも知れません。


三里塚地区には、いくつかの集落がありましたが、最後まで抵抗したのは、最も『保守的』な集落であったそうです。

そこに、当時の野党第一党、過激派などの『外部勢力』が押しかけていきました。

それらが、最初の『ボタンの掛け違い』に輪をかけたのでしょうか。


閣議決定から開港まで12年間、つまり干支が一巡してしまいました。

開港式は機動隊の厳重な警備のもとで行われました。

当時は空港への公共交通機関が未整備でした。

私は、当時は京成スカイライナーを利用しました。

駅を降りてから、さらにバスに乗り換えなければなりません。

その間に荷物のチェックがありました。

バスはわずかな距離を、道路に置かれた有刺鉄線の障害物を迂回して、空港ビルへ向かいました。


1979年2月26日、台湾・桃園県に中正国際空港が開港しました。

(2006年9月6日、台湾桃園国際空港と改称しました)

当時の台湾は、まだ戒厳令がしかれていましたが、桃園の空港は成田より平穏に見えたことを覚えています。
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2008年05月19日

太政官札? お金の話です

最近はコンビニのレジに小型のカード読み取り機があり、携帯電話をタッチして支払っている客を見かけます。

これは、いわゆる『電子マネー』のひとつです。

駅の自動改札を携帯電話をかざして通る人も多くなってきました。

私は恵比寿への通勤に民鉄とJRの2枚の定期券を使っています。

どちらも磁気カード定期券でしたが、5月12日からJRの定期券をSuica(スイカ)にしました。

使ってみると、Suicaは『なかなか』のものです。


世の中はキャッシュレスの時代ですが、それでも紙幣、硬貨の占める範囲は大きなものがあります。

世界で始めて紙幣を発行した国は12世紀のモンゴルの元帝国です。

その紙幣は現在に比べて紙質が悪かったため、長年使用していると破れたり、印刷の文字が見えなくなりました。

その対策として、若干の手数料を払えば、新品と交換可能な制度がありました。

紙幣にかぎらず、通貨には『偽造』がつきものです。

元帝国の紙幣には『これを偽造した者、使用した者、所持した者は厳罰に処する』という文言が印刷されていました。


日本で政府としての紙幣は、明治2年(1868年)5月19日(旧暦)、太政官札(だじょうかんさつ)の発行が最初です。

当時は明治新政府が誕生して2年目ですから、基礎が固まらず、したがって信用が低かったのでしょう。

なかなか一般に流通しなかったようです。


江戸時代には『地方政権』ともいうべき『藩』で紙幣を発行した事例があります。

いわゆる『藩札』ですが、発行前に幕府の許可が必要でした。

財政赤字の補填のための発行が多かったようです。

簡単に印刷できますから、後先を考えず、むやみやたらに発行したようです。

そのため、かえって物価騰貴をまねいて、藩の経済を混乱させた例も珍しくはありません。

現在の『国債乱発』を思わせる話ではあります。



太平洋戦争中は、金、銀、銅、鉄などが回収され、軍需物資生産にまわされました。

硬貨も例外でなく、銅貨が回収の対象になりました。

そのため、陶器の硬貨が現れました。

もし、その陶器製硬貨を所有していれば、すごい『お宝』でしょう。


陶器といえば、ついには飛行機のエンジンを作る材料として使われたそうです。

物不足、ここに極まれり、です。

実際に作られたか、そのエンジンを搭載した飛行機が作られたか、そして飛んだかどうかはわかりません。

飛ばすための燃料も不足していましたから、『?』です。


しかし、その考えは半世紀後に『セラミック』として時代の脚光を浴びました。

スペースシャトルの外壁の耐熱材には『セラミック』が使われています。


日本人は独創性がなく、模倣が得意な『物マネ民族』だといわれ、我々もそう思い込んでいますが、とんでもない!

切羽つまれば、日本人も自分の頭を使うのです。

ただし、『魚は頭から腐る』ように、エライ人が頭を使わなくなったため、一般国民が使わなければならなくなったのです。
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2008年05月18日

不発弾処理、無事終わる

本日の午前9時から、東京都調布市内で不発弾処理が行なわれました。

その不発弾は、63年前の1945年4月、日本を爆撃したアメリカ軍が投下したものです。

1トン爆弾ということで、半径500メートル以内の住民の避難命令が出されました。

現場付近を通る京王線は運行停止、甲州街道は通行止めになりました。

12時のニュースでは「午前11時30分に処理が終わりました」と報じていました。

自衛隊員による処理作業も画面に映りましたが、それは自衛隊による撮影でした。


事前に知らされていたせいか、避難する住民も落ち着いた表情でした。

避難区域内の病院は午前4時から入院患者の避難が開始されました。

テレビのインタビューでは「この際だから、ディズニーランドに行きます」という家族もいました。


ニュースによれば、避難した住民は1万6千人でした。

調布市の人口は22万人ですから、ほぼ10人の1人の割合です。

面積は21平方キロメートルですから、人口密度は1万人/平方キロメートルです。

半径500メートルとはいっても、実際の避難区域を地図で見ると、ほぼ正方形です。

1辺を1キロとすれば、『1万6千人』という避難住民数は納得できます。


1個の1トン爆弾は1万6千人を避難させる『威力』があります。

63年前は、その爆弾が『雨あられ』と降ってきたのです。

現在に生きる日本人のほとんどは、その恐怖を実感することはできません。

日本だけでなく、世界中の全ての人が、その恐怖を体験しないですむ時代はいつになったら来るのでしょうか。


ところで、午後9時、京王線のある駅で『人身事故』があり、ダイヤが乱れていました。

まさに『一難去って、また一難』です。
posted by 陳澤民 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

パック旅行の始まりは?

現在の日本では、外国旅行は珍しくはありません。

少しの時間と資金があれば、『思い立ったが吉日』で、すぐ旅立てます。

日本人が、自由に外国へ行けるようになったのは1964年、わずか44年前です。

それまでは、いくら時間と資金があっても日本の外へは出られませんでした。

当時は、日本の円は外国では通用しません。

ドルなどの外貨に交換しなければなりませんでした。

そのドルへの交換が難しかったのです。

ドルが無ければ、旅券が発給されませんでした。



民間人であれば、外国との商用という旅行目的があれば、なんとか旅券が発給されたようです。

ある時、商事会社の『貿易課長』の肩書きを持つ人物が、旅券申請の窓口に現れました。

係員は『貿易課長』氏に「ローマ字で自分の名前を書いてください」と言いました。

ところが、『貿易課長』氏は書けないのです。

係員は「あなたは貿易課長なのに、ローマ字でサインできないのですか」と聞きました。

『貿易課長』氏には旅行会社の担当者が付き添っていました。

担当者は、慌てて紙にローマ字の名前を書きました。

『貿易課長』氏は、それを見て申請書に、たどたどしくではありますが、サインして事なきをえました。


やがて、外国旅行自由化になりましたが、当初は『パック旅行』がほとんどでした。

ある航空会社の略称をつけた名称が『パック旅行』の代名詞でした。


では、『パック旅行』の第一号は、いつ、だれが、どこからどこへ行ったのでしょうか。

それは1860年5月17日、イギリスの労働者がロンドンから出発してフランスのパリへ旅行しました。

当然ですが、列車と船を乗り継いでの旅行です。

日本では幕末の激動期でした。


台湾における外国旅行自由化は、1979年です。

自由化の背景としては、経済力がついて外貨の不足に悩まなくなったことがあります。

もうひとつは自国民を外国にだすことに心配しなくなったことです。

1987年、台湾政府は、自国民の大陸訪問を解禁しました。

この時も政府は心配したでしょう。

大陸は多くの台湾人の父祖の地です。

その中国に取り込まれてしまうのではないかという心配です。

実際に父祖の地を見た台湾人は、台湾との格差に驚いたようです。

「大陸は台湾政府がいうほど地獄ではない。しかし中国政府が宣伝するほどの天国では決してない」と、賢明なる台湾人は理解したのです。

まさに、心配は杞憂に終わったのです。
posted by 陳澤民 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月16日

お弁当屋さん『戦国時代』

見た目は同じなのに、なぜか『客の人気(にんき)が大違い』という店があります。

私の経験では『海鮮料理』と『持ち帰り弁当』です。



妻の台湾の故郷の近くに海鮮料理店が数軒も集まって営業している場所がありました。

そこへ妻の一族ととともに食事に出かけました。

現地へ到着して、「おや?」と思いました。

我々が入った店は満席に近い盛況なのですが、他の店は一人も客が入っていません。

あの状態で、よく店を開けていられるなと、感心したほどです。

食事を終えた後も、他の店の状況は同じでした。


余談ですが、別な場所に『北海道』という海鮮料理店がありました。

日本の北海道は台湾人には魅力のある観光地です。

それにあやかって付けたのでしょう。

もっとも現在の台湾では、外国の地名も商標登録できます。

『北海道』を商標登録した企業の圧力で、閉店になったかも知れません。



国鉄民営化直前に北九州の筑豊を旅行しました。

かつては石炭作業で繁栄した地域です。

ある駅で乗り換え待ちが1時間ほどありました。

駅前広場へ出ると、明るい店が2ヶ所だけ見えました。

どちらも持ち帰り弁当店でした。

ただし、客があるのは1ヶ所だけでした。

その店は順番を待っている客が溢れていました。

2軒となりの、もうひとつの店は一人も客がいません。

待つならば、その店で買えばいいと思うのですが、そうはならない何かがあるのでしょう。



私の自宅の近くに持ち帰り弁当店が2軒あります。

バス通りに面しており、お互いの店が見える位置にあります。

あとから開店した店は、持ち帰り弁当の代名詞となった『ブランド名』を看板に出していました。

ところが、5月15日から看板の名前が変わってしまいました。

そのいきさつが今朝のニュースで報じられました。

それによれば、グループ全体の名称が変わったのではなく、グループの一部が脱退して、新しい名称をつけたのです。

グループ内部で経営方針の食い違い、主導権争い、勢力争いがあったのでしょうか。

フランチャイズ契約を解消してということのようですが、外部の人間には理解できない話です。


それにつけても『離合集散』は世の常、人の常です。
posted by 陳澤民 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月15日

ストッキング、絹からナイロンへ

今に始まったことではありませんが、『戦後強くなったものはストッキングと女性』です。

これを始めて言った人は、『ストッキング』よりも『女性』に力点があったでしょう。

しかし、古今東西、女性は強いものです。

落語には江戸時代の長屋風景が描かれている噺がたくさんあります。

どれだけ実態を描いているかはわかりませんが、長屋の女性、特におかみさんは『丈夫で長持ち』そのものです。

これ以上、この話題を続けると、女性から顰蹙をかいますから、ここまでといたします。


さて、戦争になると、敵国の軍隊、国民の戦意喪失のため、『宣伝戦』という戦いが行われます。

太平洋戦争の日本も、アメリカ、イギリスに対して、映画、宣伝ビラを使って『宣伝戦』を行いました。

もっとも、後期になると宣伝ビラに使う紙が不足したため、思うにまかせなかったようです。

私が以前に見たアメリカ向けの宣伝ビラには、一人のアメリカ人女性が書かれていました。

彼女は、ルーズベルト大統領に向かって、次のことを言っています。

   日本との戦争を早く止めてください。

   そうでなければ、ストッキングを履けなくなるわ。


かつての日本は外貨の多くを繊維産業、特に絹織物で稼いでいました。

アメリカ人の女性の足を包むストッキングは、日本の絹で作られていました。

戦争によって、日本から絹を輸入できなくなり、したがってストッキングが履けなくなると、いう次第です。


実際には、アメリカのデュポン社がナイロン製ストッキングを全米で発売していました。

最初の発売が1940年5月15日でした。

当時のナイロン製ストッキングが、いかほどの価格で、多くの女性が買えたかどうかはわかりません。


同じ時、日本の女性の多くは『モンペ』姿でした。

『欲しがりません、勝つまでは』の時代でした。

そういえば、『ぜいたくは敵だ』というスローガンがありました。

国民に、それを押し付けたエライ人が『ぜいたく』をやめたかどうかは、わかりません。

それを『ぜいたくは素敵だ』『敵はぜいたくだ』と言い換えて、国民は鬱憤を晴らしていました。
posted by 陳澤民 at 21:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月14日

将軍様と温度計

5月の連休が終わると、急に雨が降り続き、まるで冬に戻ったかと思える気候です。

中国四川省では大地震があり、多くの人が家を失い、野外でのテント暮らしを強いられています。

一説では「三峡ダムが地震の原因である」といわれています。

この季節の四川省の気候はわかりませんが、雨に降られては悲惨な限りです。


天候の変化によって、気温が上下しますが、その気温を簡単に図る方法が温度計です。

昔は寒暖計といっていました。

温度計には、ふたつの目盛りがついています。

『摂氏』と『華氏』です。

ほとんどの皆様は、なぜ『氏』なのだとは疑問をもたなかったでしょうか。


あるメールマガジンによれば、5月14日は『華氏』の産みの親の誕生日です

水銀温度計を発明したドイツの物理学者ファーレンハイトの誕生日が1686年5月14日です。

中国では、ファーレンハイトに『華倫海特』の字を当てたことから、『華氏』と呼ばれるようになりました。

ちなみに、『摂氏』はスウェーデン人のアンデルス・セルシウスの『セルシウス』の漢語訳です。

ファーレンハイトの発明は1724年、セルシウスは1742年に考案しています。

したがって、『華氏』は『摂氏』より18歳の年長です。


ファーレンハイトが生まれた1686年は、日本では江戸中期、元禄時代が始まるころです。

『暴れん坊将軍』徳川吉宗は、まだ2歳でした。

まさか、この幼児が八代将軍になろうとは、誰も思っていなかったころです。


吉宗と温度計とは、まるで関係なさそうですが、それがなかなか、関係があります。

吉宗は、『実学』を重んじた将軍様です。

和歌、詩歌などの教養よりも、実際に役立つ学問を尊重しました。

自ら江戸城内に雨量計を設置して、雨が降るごとに雨量を測定しました。

そのデータの蓄積に基づいて、大雨による洪水を予測し、江戸市民の避難対策を指示したといわれています。

吉宗在世中に、日本に温度計が入ってきたかどうかはわかりません。

もし手にいれていたならば、興味本位でなく、やはり実用に使っていたでしょう。
posted by 陳澤民 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月13日

5月13日は、別れたり、カクテルを飲んだりする日

かなり前からですが、2月14日の『バレンタインデー』、3月14日の『ホワイトデー』が『恋人たちのため』というよりも、関連業界のために毎年、盛んに宣伝されています。

私は知らなかったのですが、4月14日は『オレンジデー』でした。

これだけではありませんで、本日5月13日は『メイ・ストームデー』です。

『バレンタインデー』から88日目です。

『八十八夜の別れ霜』という意味があって、別れ話を切り出すのに最適とされています。

もっともらしく英語を使っていますが、起源地は日本です。

さすがの関連業界も、この日を商売には利用したくないようですが、実態はいかがでしょうか。


人生は何事も順風万帆とは行きません。

恋人たちも少しは試練を経ないと結ばれません。

この試練を乗り越えれば、6月12日は『恋人の日』です。


それから、5月13日は『カクテルの日』です。

アメリカの雑誌『バランス』の1806年(ほんとうかな?)5月13日に、『カクテル』という名称が初めて登場したのにちなんでいます。

カクテルとは、酒に砂糖、水、ビター(これは何だ!)を混ぜた興奮飲料です。

酒は何でもいいそうです。

つまり、安い酒でも、混ぜてまぜてしまえばわからなくなるのでしょう。

興奮飲料ということでは、アメリカでは選挙運動の妙薬だそうです。

いま、アメリカは大統領予備選挙の真っ最中ですから、さぞかし需要が多いでしょう。
posted by 陳澤民 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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